尾上製作所はバケツなどのトタン製品、園芸用品、湯たんぽ、レジャー用品など幅広く取り扱う日用品メーカーです
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バケツの話
バケツ
  日本古来の水汲み容器は、木製の桶か瓶に限られています。大原女が頭に乗せたのも水瓶でしたし、農婦が川から担ったのも木の桶でした。大風が吹いて桶屋が儲かった程、桶が普及していたのがわが国です。そうしたものに替わって鉄製の水汲容器がバケツという名前で日本にもたらされたのは明治時代のことです。
  明治24年、大阪にイタリアの軍艦が入港した時に、初めてわが国にバケツというものがお目見えしたといわれています。
  当時、世は文明開化に明け暮れする時代、次から次へと持ち込まれる西欧文明に眼をみはり、そして摂取しようと人々はいまに劣らぬ意欲を示したものです。このイタリア軍艦が運んだバケツを、その人々が見逃す筈はありませんでした。
  バケツの製造に、そのようにして手をつけたのが、勝見徳之助という人でした。明治24年にバケツの見本と製造法を入手し、翌25年から製造研究にのりだしています。
  ところで、この勝見徳之助という人物と国産第1号のバケツをめぐっては、次のような偶話が残されています。 ・・・・彼が入手した見本は、薄鋼鈑を切断して組み立て、それを丸ごと鍍金釜につけた、いまでいう「丸アゲ・バケツ」だったそうです。研究を重ねた勝見氏は、独創を生かして薄鉄板を切断して型をとり、組み立てる前に鍍金する方法を考えたのです。彼は双腕によりをかけて、まず輸入品の貴重な鉄板を切断し型をとりました。そしてふいごを吹き吹きカッカと火を燃やし、これまた輸入された亜鉛を釜の中で溶かしたのです。さて用意万端整ったあと、やおら彼はその型どった鉄板を亜鉛溶液の中につけ、引上げてみると美しい鍍金ができ上がっていました。これでよし、さてもう1枚、どれもう1枚・・・・・と次々に切片を入れていったのですが、だんだん亜鉛がつかなくなってしまったのです。ついには、幾度漬けてみても鍍金はおろか、わずかの亜鉛さえ付着しなくなってしまいました。今から考えると幼稚な話ではありますが、当時にあって勝見氏の落胆ぶりは大変なものだったに違いないでしょう。
  そこで彼はやむなく京は伏見のお稲荷さんに願かけにいったのです。「21日の願かけ」その満願の日のことです。夜半の枕辺に一人の白髪の老人が立ちました。手に1本のひしゃくを持ち、ものを汲み出す仕草を示してやがて消えていったそうです。明けて翌朝、昨夜の夢にふと思い立った彼は鍍金釜の端に立ち、ひしゃくを手にしてその亜鉛溶液をすくって出し始めました。上部をほとんど汲み終わった頃、もう一度鉄板を漬けてみると、不思議にも亜鉛がくまなく付着しているではありませんか。こうして勝見氏はバケツの製造に成功したのです。
  いささかオトギ話めいた話ではありますが、それはともかく、このように明治25年に初めてわが国でバケツが作られたのです。
  以来、丸アゲ・バケツを経て明治29年には亜鉛鉄板が輸入され始めるようになったことから、わが国独特の平板バケツが製造され、価格面で約倍近くかかる丸アゲ・バケツに替わって登場することになったのです。
当時はあくまでも家内手工業で、腕利きの職人が1日最高10個、それで結構いい仕事になったといいますから、今から考えるとまったく夢のような話です。桶屋連中の反撃にあいながらも明治42〜43年には全国的に小規模な工場も建ち、暫時生産量も増加を示していきました。そして大正に入り国産亜鉛鉄板が続出するに従ってバケツの生産量も飛躍的に増大し、手転プレス、切断機を設備した工場ができていきました。
  このようにして、紆余曲折を経ながらも、着実に大衆の、庶民の生活の中にバケツは溶け込んでいったのです。